「歌月十夜」(present by TYPE-MOON) シナリオ 『「夢十夜」赤い鬼神』 ---------------------------------------------------------------------------- —————それでは、一つ古い話をしよう。  微か、鈍い快音が生じた。 「あ—————————が」  正面から首の骨を潰され、男は絶命した。  即死ではなく、致命傷を受けてから死に至るまで数秒の時間を要す絶命である。  だというのに、男はついぞ、自らの目前に居るべき襲撃者の姿を見る事さえできなかった。  死に至る数秒、男が懸命に思考した事は傍らの仲間に襲撃者の存在を知らせなくてはならない、という事だけである。  再び快音。  男の真横、それこそ手を伸ばせば届く距離にいたもう一人の護衛は、やはり同じように絶命していた。  なんだ、悪い夢だ、と男は嗤った。  彼らは自らが受け持つ区域に侵入するモノがあらば、鼠でさえ見落とさない。  それが傍らの仲間の絶命にも気が付かずに自らも死んでいるなどと、そんな事実は夢でしかない。 ———だが、これは紛れもない現実であった。  およそ人の所業ではない。  穏行に優れた式神か、それとも自分らの知らぬ未知の魔の仕業なのか。  瞳孔が開いていく。  眼球というカメラがその機能を止めてしまう前に、男は仲間を仕留めた襲撃者の姿を納めた。 「———————」  それは、明らかに笑っていた。  姿は人間。  気配も匂いも人となんら変わりはない。  両手には、そう———太鼓を叩くバチとしか思えないモノを持っていた。  その先端で首を潰されたのだと男は驚き、それ以上に、襲撃者が本当に人間でしかない事に驚愕した。  襲撃者は淡々と歩いていく。  また快音。  離れた区域の護衛たちは、自分たちと同じように絶命していく。 ————酷い悪夢だ、と男は嗤った。  気配もなく殺意もなく。  なんの血も混ざっていない只の人間が、この異能の血脈で固められた守りを突き潰していっている。  なるほど、と消えいく意識で男は納得した。  アレが今回の敵。  混血である自分たちの間では一つの禁忌として語られる、鬼神と謳われた七夜の当主————。     その襲撃者の名を、七夜黄理と言う。  襲撃が始まってからすでに半刻が経過した。  黄理は屋敷の外を警護していた者達を全て処理しており、残るは屋敷に潜む標的を暗殺するだけになっている。  屋敷の外にいた者は二十人。  それは黄理が事前に聞いていた人数より一回り多い数だった。 「……二十人とは、また」  過剰殺人だな、と黄理は笑った。  無邪気な、子供めいた笑いだった。  七夜黄理という青年は暗殺を生業としている。  平たくいえば殺し屋だ。  それも何代も前から続いている、由緒正しい殺し屋である。  無論、過去においても現代においても、そして願わくば未来においても、そのような職種は認められてはいないだろう。  認められていない以上、そんなものは有ってはならない。  故に七夜という家系は影の影、より暗い暗部に息づいてきた。  ……否、影に潜まねばならぬ理由は、その生業ではなく血脈に有ったと言えるだろう。  魔というモノがある。  自然の法則にありながら、その流れを歪めるモノとして必要とされなかった力がある。  これには様々な種と類があり、総じて、正統な流れにある者には邪に映る輩である。  故に魔であり、必然として魔を嫌う退魔が生じた。  魔とは歪みであり、退魔とは歪みを修復する者の集まりである。  だが歪みというのは一種ではない。  退魔が成すは自然の歪みの修正であり、人の歪みを正すには至らない。  例えば、鬼と呼ばれる魔がある。  これは始まりからして正統な流れにいる種ではなく、明らかに生粋の魔とされる。退魔はこれを禁じるに適しているが、この鬼種に人が混じると話は違ってくる。  退魔というのは人が人の社会を守る為に練り上げられた組織であり法術系統である為、初めから人を害するには作られていないものだ。  故に、魔と人の混ざりモノに対しては後手を踏むことになる。  遥かな昔。超越者である魔との混血を望む者は多く、結果として一部の者がそれを可能としてしまった。  人でありながら魔を孕む彼らは、時には退魔の協力者として、時には最大の敵対勢力として存在していた。  その割合はひどく危うい。  退魔に与する混血と退魔とは相容れぬ混血は互いを憎みあい、両者はたえず水面下での争いを続けている。  無論、退魔の組織にとっても自らに相容れぬ混血は敵であった。  だが、原則として退魔というものは歪みの修正をするモノである。  魔というものは発生しているだけで歪みであるから、彼らは即座にこれを禁じる。  だが人との混血である魔は歪みではない。  混血である者が歪みと認められるには、人の血ではなく魔としての血が濃くなった場合のみだ。  この、魔との混血であり、人としての側面を保てなくなった者を外れた者と呼び、退魔はようやくソレを処罰の対象とするのである。  しかし、混血なる者が“外れた”場合、これは退魔にとって最大の敵となりうる。  人としての側面を持つが故に禁縛の勅は通じず、魔としての異能を駆使するが故に人の身では太刀打ちできない。  武具が発達していない過去において、外道を処罰する事は多数の犠牲者を出すという事であった。 ————だが。     そこに、一つの特例が存在する。  超能力。  魔と退魔は反発しあいながらも、その実は大元の力を同じとする者たちである。  故に彼らには共通のルールが存在し、その中で公正な勝負を決するのだ。  しかし、そのルールを覆すモノが稀に存在する。  それが超能力と呼ばれる異能力であり、異能力者である。  “魔”のルールにそぐわず、純粋な人間として異能を保有するモノ。それらはヒトという種が無意識から生み出した抑止力とも言われている。  抑止する対象は、無論、霊長類として頂点に立つヒトにあだなすモノタチである。  それらの能力を持つに至った人間は魔術という後天的な技術を学ぶ必要もない。  自然干渉法———陰陽の理を無視した、自然から独立した人間種が持つに至った最果ての能力が超能力である。  魔としての自然干渉法は行わず、人間でありながら人間として規格外の能力を持つ者。  混血なる者と同じ、だが彼らのように異血の力を借りず、生まれながらにして特異な機能を有した人間。  先天的な能力であるが故に一代限りで終わる偶発的な発現者。  一般に超能力者と呼ばれる彼らこそ、混血たちにとって忌むべき邪魔物だった。 ———つまる所、七夜の一族はその特例である。  だが超能力という力が魔に勝るかと言えば、そんな事は万に一つもありえない。  超能力というのは陰陽のルールにそぐわないだけの、ほんの小さな針にすぎない。  その能力・効果そのものは魔や退魔の自然干渉に比べるべくもなく、超能力者単体で混血なる者には到底太刀打ちできなかった。  しかし、それでも規則の外からの力というものは規則に生きる彼らにとって脅威となる。  退魔の者は彼らを隠し玉として用意し、争いの途中に登場させる事によって混血なる者の不意を突く。  例えるのなら、超能力者の援護というのは睨み合っている二人の間に石を投げつける程度にすぎない。  超能力者はその規格外の能力を用い、  ただ一つ、一度だけ敵に対して決定的な隙を作るのみなのだ。  それが退魔にとっての超能力者の使用方法であり、混血なる者にとっても、所詮は予想外の要因となる厄介者という認識にすぎなかった。  そう。  超能力という人間独自の力が自然という魔に勝るかと言えば、そんな事は万に一つもありえないのが世の定め。 ————だが、ここに万に一つの鬼神がいた。  古来より、七夜は自らの血脈を混ぜる事なく代を重ねてきた。  近親による交配は忌み子を多く間引いたが、その中で成長した子は強大な力を宿した。  本来一代限りの変異遺伝である“超能力”が色濃く継承されるのは、そういった一種偏執的な配合を繰り返した故である。  くわえて、七夜は暗殺者としての技術を磨き上げ、本来ならば使い捨てとされる超能力者を生還させる術を学んだ。  その結果として、  人として外れた能力を持ち、かつ、人間として身体性能を限界まで鍛え上げる七夜という一族が誕生した。  その時点で彼らは超能力という異能を有する一族ではなく、ヒトの持つ退魔意志を特出継承する特異な一族と成り果てた。  それは時として混血なる者たち以上に迫害されてきた異能力者の家系———七夜にとって、そういった自己の有効性を見せ付ける事しか生き残る術がなかった故である。  そうして退魔の勢力は絶対の戦力として七夜を保有した。  その後は長く退屈な時間が過ぎる。  ……七夜は暗殺者として頂点に有り続けた。  そしてその頂点から転がり落ちる時こそ、七夜という血族が滅びる時なのだと、誰よりも彼ら自身が理解していた。  響く快音。  屋敷に侵入し、黄理は数分と経たずして六人目を処理していた。  七夜黄理にとって室内の仕事は最も得意な分野に入る。  壁があり、天井がある。  それだけで黄理の行動範囲は広がり、さながら獲物を捕食する蜘蛛のように事を済ます。  その速さは蜘蛛のそれではなく獣のそれだ。  第三者がいるのならば、人間というのはここまで奇怪でありながら華麗な動きが出来るものなのだと感嘆の息を洩らすほどに。 ————奥に二人。いや、三人。  黄理は壁越しに標的の所在を確認する。  ここまでで仕留めた数は三十余人。その全ては標的である斎木という男の親族であり、ことごとくが混血の化け物たちである。  断言すると、屋敷に集まった人間の中で生命としての性能は七夜黄理こそが最弱だった。  いかに退魔を特出させようと、人が単体で発揮しえる力はまだあまりに小さい。世界と繋がり外界を変質させる“魔”には対抗すべくもないのだ。  くわえて、黄理の超能力は“人の思念の流れが視える”といった補助的に物にすぎない。  睨むだけで相手の体温をマイナスにする、などという怪物たちの巣に挑むにはあまりに細い糸だ。 ———だが、黄理にはその糸だけで事足りる。  細い糸を張り巡らし、怪物の巣を自らの狩猟場に作り変え、一つ一つ確実に獲物を仕留めていく。  もちろんそこには殺意も緊張もありえない。  七夜の当主ならば、この狩場こそを日常とするからである。  さらに三人を仕留めた。  黄理の手にしている物は鉄製のバチにすぎない。  彼は好んでその朴訥な武器を使い、人体の急所を穿った。  それは点穴と呼ばれる、優れた暗殺手段には程遠い凄惨な殺し方だ。細くはないが太くもない棒の先端で、肉ではなく骨を潰す。時には相手の頭上から脳天を穿ち、首を胴体に押しこんでしまう事さえある。  黄理という名が示す通り、彼の武器はバチというより巨大なキリに近い。  物は切れないが、物に穴を開ける事もある。  その結果、時としてこのように返り血を浴びる事も少なくなかった。 「———フン」  黄理は右手のバチを振るって血を拭う。  屋敷に残った人間はあと二人だけだ。ここで血の匂いをばらまいて獲物を動揺させる事にしたのだが、思いの外血の気が多い者に穴を開けてしまったらしい。 「……不細工な血だ。匂いからして巧くない」  不愉快そうに暗殺者は呟く。  頭から返り血を浴びて、七夜黄理は初めて足取りを止めた。  彼は血を好む性質ではなく、全身にねばりつく赤色が自らの精度を下げる事にならないかを思案する。  七夜黄理は、殺人行為になんら魅力を感じていない。彼はただ七夜という家に生まれ、他の兄妹に比べて肉体能力が優れていたのでこの道に入っただけである。  兄のように殺人を愉しみにする性格ではないし、妹のように魔に過敏に反応して怯える性格でもない。  しいて言えば、彼は一つの事に打ち込む性質だっただけだ。  いかに巧く人体を停止させるか。  その考察は七夜に生まれた者の義務であり、七夜黄理はただ一心にソレを突き詰めていたにすぎない。  そうして気が付けば周囲には彼に勝る使い手はおらず、知らぬ間に当主として奉り上げられ、こうしてもう何年も混ざりモノたちを殺して回るだけの日々となった。  振りかえれば彼の人生にはそれしかなかっただろう。  だが、そんな愚にもつかない感傷を黄理は持たない。  彼の心にあるものはいかに人を巧く殺すか、という事だけ。  ただその一点のみが彼の追究する命題であり、生まれた時から与えられた七夜としての意義なのだから。 「———八人目は良かった。帰ったらもう一度やってみよう」  黄理は今夜殺めて回ったうちの一人、三十余人の中で最も迅速に仕留められた手段を思い返す。  そこには楽しみも苦しみもない。  七夜黄理には、そういった感情が欠落している。  故に彼は七夜の当主に相応しい。  殺人を愉しむのでもなく恐れるのでもなく。  ただ行為として没頭できる事が、殺人鬼としての天性なのだ。 「———————」  その殺人鬼が、不意に違和感に襲われた。  あと二人、と視ていた視界に異物が混ざる。 ———この屋敷に、朱色の流れが存在する。  七夜黄理は人の思念を視る。  思念とは波であり、たいていは濁った透明色をしており、その流れの緩急で感情がかろうじて読み取れる。  だが、時にはその流れに独自の色を持つ者がいる。  そういった者達は決まって“人間”と呼ぶのもおこがましい化け物だ。黄理が知るかぎりでは、退魔の組織の何人かは青だの銀だのといった神域の思念を有していた。  それが、朱。  いや、恐らく本体に近づけばより鮮烈な赤になって視えるだろう。  それほどの強い思念、それほどのあからさま禍を黄理は見たことがない。 「——————」  いまだ髪から垂れる返り血を拭わず、七夜黄理は足を動かした。 □斎木の館の部屋  そこにいたのは、十に届くかどうかという子供だった。  子供は全身が傷ついており、手足は鎖で繋がれていた。  ソレが混血たちの中においてさらに異端として扱われているのは明白であり、黄理にはソレがなんであるか一目で理解できた。  だが所詮は無関係なモノにすぎない。  この子供が黄理の標的を守る者ならば殺すだけだが、コレにはそのような役割は与えられていない。  七夜黄理にとって、その子供は石ころと同じである。  無視して通りすぎるのが黄理の仕事だ。  じゃらり、という鎖の音。  子供は顔を上げて七夜黄理を視る。 ————瞬間。  七夜黄理は、子供の顔面に凶器を突きたてた。  ずるり、と突きつけたバチを抜く。  凶器は子供の右目を完全に潰していた。 「————————」  悲鳴さえあげずに子供はうなだれた。  流血が畳を染め上げていき、黄理は座敷を後にした。  それがこの稀代の暗殺者にとって、唯一の私的な殺人行為だった。 ————その理由を、彼は最期に知る事になる。  その、初めての私的な殺意が精密だった理性を破壊した。  興奮していたのだろう。  その後の七夜黄理の行動は、反吐が出るほど凄惨だった。 □斎木の館の部屋  彼は標的である斎木と、その監視役として派遣された男が潜む部屋へと正面から押し入った。 ———それは七夜黄理に相応しい行為ではない。  彼が混血たちに対して生還できたのは、その全てが暗殺だったからである。  このような蛮行は、およそ自殺行為に近い。  そして、侵入ではなく侵略をしてきた七夜黄理を前にして、斎木という混血は容赦なくその能力を叩きつけた。  否、訂正しよう。  それは、七夜黄理という殺人鬼にこそ、容赦が無かった。 □斎木の館の部屋 ———それを、彼は最も近い位置で見てしまった。  彼は斎木翁と関わりのある、ある混血の家柄の長男だった。  だが彼は斎木翁とは異なり、退魔の組織に協力的だった。彼にとっては先祖代々の誇りなぞより家族の安全の方が何倍も大事だったからである。  そうして秘密裏に退魔の組織と盟約を結んでいた彼は、監視役として斎木翁に仕え報告を行っていた。  斎木翁が人の肉を食らい外れてしまった事も、その犠牲者がすでに千を超えている事も、包み隠さず報告したのは彼本人である。  もともと混血として旧世代である斎木翁は支配欲の塊であり、彼のように静かに暮らそうと願う混血からしてみれば喧しいだけの老人にすぎない。  くわえて、独裁者であったこの老人が亡くなれば斎木グループという財団には穴が出来る。そこに手を加えるのは実業家としての彼の野心でもあった。  そうして彼は斎木という血筋を売り、  それを買い取った退魔は、七夜黄理という暗殺者を送り出した。 「あ——————」  だらしなく声をあげて、彼は自身がひどく危うい所にいるのだと気が付いた。 「あは、は————」  壊れた人形のように声をあげる。  それも、絶え間なく響く快音にかき消される。  び。ぎ。ず。びしゃ。びしゃ。びしゃ。ぐちゃ。  問答無用というのはコレか。  彼は、その悪鬼を笑いながら見ていた。  見ているしかなかった。  嵐がそのまま部屋に押し入ったかのような傍若無人ぶりで、暗殺者は斎木翁の肉体を消滅させた。  ……襖が開いて暗殺者が現れた時、彼は舌打ちしたものだ。  それではどうしようもない。  完全に魔としての血を覚醒させている斎木翁に対して正面から挑むなど、退魔師を一ダース用意しても勝利できる方法ではない。  噂に聞く七夜の当主もこの程度かと失望した矢先、それは起きた。  和室には漆塗りの台がある。  暗殺者は現れるなり、その下に滑りこんだ。 「む?」  と、彼も斎木翁も意表を突かれた。  なにしろ台の下だ。そんな所に滑りこんで何を、と思った瞬間、斎木翁は足首を掴まれ台の下に引きずり込まれた。 ———そうしてコレだ。  斎木翁は悲鳴を上げる間もなかった。  台の下に引きずり込まれた途端、まず、斎木翁と呼ばれた老人の生首が畳の上を転がってきた。  あとはバラバラと肉片が飛び散ってくる。  あの台の下。  人間一人がうつぶせになってようやく入れる程度の空間で世にも凄惨な解体作業が行われ、そして——�  全身を血まみれにして、暗殺者が這い出てきた。 □斎木の館の部屋 「あ———あはは、は————」 「—————————————」  七夜黄理は笑い呆けている彼へと歩み寄る。  感情のない眼が、同じ混血である彼を見据えていた。 「はは—————ははははははは」  殺される、間違いなく殺される、と彼は直感した。  指をさしてデタラメな殺人鬼を笑う。  両手に血まみれの凶器を持った殺人鬼は彼の前に立ち、その足元に転がっている斎木翁の生首にバチを刺した。  ずっ、という重い音。  殺人鬼は串刺しにした生首を持って、そのまま、目障りな羽虫を退けるように 「うるさい」  笑い続ける彼の心臓に、もう一本の凶器を撃ちつけた。  七夜黄理が急所を外したのは、やはり彼がひどく興奮していたせいだろう。  笑い呆けていた男は倒れ、黄理は生死を確認せずに屋敷を後にした。  胸を穿たれた彼は、一命を取り留めた。  何の因果か、四つの夢を見た。  子供に戻った夢と。  子供になった夢と。  子供を思った夢と。  ああ、それとあと一つ。  ひどく場違いに笑う己と、同じように微笑んでいる幼い己とが、日向の庭にいる姿———— □七夜の屋敷  暗い座敷に彼は居た。  物心がついてから与えられた空間がここであり、唯一自由になれる空間もここだった。  彼はまだ幼い子供だったから、この広さに不満はなかった。  むしろ広すぎて不満を覚えた記憶がある。  彼はもともと人間が苦手だった。  彼の瞳は特別で、人の内面を覗くような眼だったからである。  だから随分と成長するまで言葉を覚えなかった。  話さずとも誰が何を感じているのかが判る為だろう。くわえて、彼らの使う言葉という意思疎通法は、その感情とはあまり合っていないちぐはぐなモノだった。  だから彼は言葉を覚えなかった。  そんなちぐはぐな意思疎通方法を覚えても仕方がない、と思ったのだ。  至極、当然の事である。  初めに、一つの事を教えられた。  それきり一年間が過ぎた。  その間これといって会いに来た他人はいなかった。  他にやる事もないので教えられた事を繰り返し、それでも退屈になってきたので自分なりにやりやすい方法に変えだした。  そうして二つ目の事を教えられた時、そんなモノはすでに覚えてしまっていた後だった。  教師がいない、という事が幸いしたのか、彼の身体の使い方は常識に囚われていなかった。  その時点で、彼は才能を見出されてしまっていた。  それが人を殺す為の術なのだという事は生まれた時から解っていた。  彼は自分が生まれた家がそういった家なのであり、その義務から逃れられない事も熟知していた。  だからあとはとても簡単に済んだ。  彼は受け入れて、ただひたすらに技術を研磨した。  それこそが自己の存在理由であり意義である。  その他の事など彼らには煩わしい事だったのだろう。  だから疾走った。  振り向かずに、他の事など考えないように何処かを目指した。  子供心に、自分は一生“いかにうまく殺すか”という問題を負い続けるだけなのだと思った事もある。  ……結果として、それは間違いであったワケだが。 □七夜の屋敷  暗い座敷に少年は居た。  物心がついてから与えられた空間がここであり、唯一自由になれる空間もここだった。  少年はまだ子供だったから、この広さに不満はなかったと思う。  むしろ広すぎて不満を覚えたのはではないかと危惧するほど、少年は余っている空間を凝視していた。  少年はもともと人間を理解できなかった。  彼らの行動も、表情も、言語も、あらゆるものがよく分からなかった。  きっと自分は人間ではなく犬か何かなのだと少年は思った。  そうでなければ気が違ってしまうほどの断絶があった。  その隔たりは、結局、少年が同種の人間に出会うまで解決される事はなかった。  周囲は少年を鬼子と呼んだ。  もともと鬼種という生粋の魔との交配を繰り返した一族であるくせに、望んでいた純度を保った少年が生まれた途端、一族の者は必死になって少年を隠した。 尋常ならざる彼らにとっても、その少年が生まれてはならぬモノだと理解できたのだろう。  その血脈、何百年目かの罪業の所在は、彼らの代になって形を成した訳である。  軋間という彼らは、目的に達してようやく自らが破滅の道を歩んでいた事を知った。  無論、混血を望んだ全ての血脈の果てはそれである。  彼らはただ、  それが他よりひどく遅かったか、  ひどく早かったかにすぎなかっただけである。  少年は何一つとして教わる事はなかった。  もともと誰も話しかけてこないので言葉を覚える必要もなかったし、自らの意思を伝える機会もなかった。  少年の凶眼は人の内面を強く浮き彫りにする。  少年を前にした人間はたいていは怖れしか抱かない。だから人間というのはそういう生き物なのだと少年は学習したし、そんな事しか反応のない生き物なら言葉を覚える必要なぞなかったのだろう。  至極、当然の事である。  少年は森を好み、獣の中に居る事を望んだ。  彼らは許さなかった。形式上だけとはいえ、家を継ぐ者にそのような生活をさせる訳にはいかなかったからだ。  なにより、次代の長がケモノじみた生活を望むなど彼らから見れば恥でしかなかったのだろう。  だが少年は彼らが思っているような痴呆ではなかったし、早熟といえば早熟だったのだ。  少年は早くから自らの封じ方を心得ていたし、事実、産声をあげてから一日たりとも自身の檻を外した事はなかった。  それは、生まれた瞬間から始まる絶食のようなものだった。  少年はひたすら乾きを押さえこみ、自身という怪物を抑制していた。  本来———人間として成長し、多くの守るべき物を作り上げてから対抗する血の疼き。  少年の血族がつねに発病するという先祖還りは、成人した人間の理性を持ってしても一年足らずで宿主を破滅させる。  それを、少年はじっと耐えていた。  言葉を知らぬ、ましてや家族というものを知らぬ子供に出来た事ではあるまい。  つまり、少年は少年なりに、訳もわからぬまま肉親を守っていたという事だ。  父親や母親、兄弟、そういったモノが自分とどのような関わりのあるモノか分からない。  ただ、彼らを守る為に自身を押さえつけていた。  そうしていつかは、静かに、ただ穏やかに忘れ去られて土に還るのが正しいのだと分かっていたのだろう。  けれどそれも長くは続かなかった。  幕を下ろしたのは、少年以外の誰かである。 ———おまえは、生まれた時から正気じゃない。  その呪いを受けて、少年は拳銃で頭を撃たれた。  ……その言葉は正しい。  少年は生まれた時から違っていた。  だからこそ彼らより長く血を抑えられたのだし、彼らのように発病する事もなかった。  そうして。  生まれながらにして正気ではない少年は、そんなモノで死ぬ事さえありえなかった。  斎木という老人が手勢をつれて訪れた時には全てが終わっていた。  屋敷は全焼し、一族は一人を除いて全て圧殺されていた。  もとより家族という意味を理解していなかった少年だから、やはり、済ませるのは簡単だったのだろう。  そうして彼は憑かれた。  後悔も懺悔も感傷も感想もなかった。  結局、それは。  初めから、そういう風にしか有り得ない生き物だったからである。 □七夜の屋敷  そうして、古い座敷に居る。  彼にとっては牢獄のようだったその座敷を、君は望んで受け入れた。  子供には広すぎる座敷に正座をして、ぼんやりと夜の森を眺めている。  その姿を見るたびに彼は恐れを抱く。  君の姿は、彼にとって未知でありすぎた為だろう。  君が生まれた後、彼は組織から抜けた。  反対の声は多かったが彼は力でねじ伏せた。  その方法は間違ってはいたが、やはりそれ以外に方法などなかったと思う。  彼は幼少の頃に過ごした屋敷に引き上げ、結果として、君は暗い森に閉じ込められた。  彼は君に自分と同じ人生を歩ませようとしたわけではない。  それでも最低限の身の守り方は教え込んだし、君が彼を真似て座敷で遊んでいた事もある。  かといって君が彼のような人間かというとこれも違っていて、君は信じられないぐらい穏やかな子供だった。  君がこの何もない山奥を好きだといい、おそらくは一生ここで静かに朽ちていくのでしょうと語った時、やはり彼は怖れを抱いた。  子供のその望みは彼にとっての望みでもあり、そして、それだけは果たされる事のない望みだと悟っていたためである。  彼が言葉少ない性格だった為か、君もあまり言葉を話す事はなかった。  それでも君が不器用な彼を愛し、病弱な彼女を愛していた事は誰にだって読み取れた。  素直な感情を持つが故に、君の心は言葉にしなくても周囲から理解される。  君が言葉を必要としなかったのも、当然といえば当然だった。  それでも君が一人で自身の身を守れるまで、彼は日中に君を連れ出す事はしなかった。  それもじき解決するという六年目の冬。  春を待つ季節に、彼は不穏な噂を聞いた。  ある混ざりモノが、彼とその一族を狙っているという話だ。  彼は何ら怒りを覚えなかった。  なにしろ今まで組織の名の下に散々殺しまくってきた血族だ。  組織の庇護を失った自分たちに復讐をしたがるモノは多いだろう。  それも、至極当然の事である。 □時南医院の診察室  近いうちに自分たちの屋敷が襲われると聞いて、七夜黄理は薄く笑った。 「バカモノ、笑っとる場合か。時間はないぞ、手を打つのなら急げというのだ。おぬしも一族を率いる身であろう、このような些事で血を絶やす事はあるまい」br  医師は黄理を睨む。  昔から何かと縁のある男だ。組織から抜けたからといって情は抜けず、こうして秘密裏に黄理に襲撃の真実を話してしまった。  だというのに、肝心の七夜黄理は愉快そうに口元を歪めているだけで一向に動こうとしない。 「いや、ご忠告痛み入る。だがまあ、逃げてどうとなる事でもない。どのみち襲われるんならテメエの庭で迎え撃つさ。アンタに肩入れされる筋はねえし、なにより———」  久しぶりの狩りだ、と黄理は眼を細める。 「黄理よ。おぬしはその仕事から足を洗うために抜けたのではなかったか。もはや暗殺業など必要とされる時代ではないと悟ったからこそ無理を通したのだろう。ならば———」 「はっ、説法は止してくれ。なんだって治療に来たってのにアンタのお喋りに付き合わなくちゃなんねえんだ。おら、口はいいから手を動かせよヤブ。久しぶりの護衛で肩やっちまったんだから」 「……解らんな。足を洗った筈のおぬしが狙われ、おぬしはおぬしで刀崎の護衛などを引きうけておる。  いや、そのような半端をするから今になって七夜を問題視する愚か者が現れるのじゃぞ」 「仕方ねえだろ、刀崎とは先代からの付き合いなんだから。連中金だけは持ってるしな、わりあいいい仕事だったぜ」 「ふん。子供をもうけて落ちついたかと思うたが、おぬしは一向に変わらんな。子煩悩と聞いたがそれも怪しいものになってきおった」 「———うるせえな。いいからとっとと終わらせろ」  黄理はそれきり口を閉ざし、医師は無言で治療にかかった。  そうして、不意に。 「なあ、じいさん」  かつて鬼神と怖れられた暗殺者は、ひどく落ちついた声をあげた。 「人生っていのは巧く出来ているんだな」 「ほう。何をしてそれを口にする、おぬし」 「別に。他意はない」  呟いて、黄理は口を閉ざした。 ————六年前。  彼は七夜の当主として世継ぎを生んだ。  暗殺者としての精度を保つ為、七夜の人間は世代交代を早めにしている。  身体機能が衰えだした頃に自らの子供が成人し、七夜は次代に引き継がれる。  彼の兄や妹はすでに子供をもうけており、子供たちは次代の当主候補として訓練を受けている。  それに比べると黄理は随分と遅く子をもうけた事になる。  黄理が子供を作らなかったのは、偏にその必要性を感じなかったからだった。  後継ぎならば兄や妹の子供に任せればいい。  もとから人の殺し方にしか関心のない黄理にとって、子供という存在はまったく理解の外にある現象だった。  いや、それとも黄理は悟っていたのかもしれない。  自分は子供のまま成長した人間だ、と。  人間として必要な物をすべて削ぎ落として、ただ一つの事だけを研磨してきた人間。自分の好きな事しか見てこなかった人間。未熟な、一つの事しから知らない子供。  そんな子供が子を育むなど出来る筈がなく、もちろん想像する事さえしなかった。  つまり七夜黄理にとって、自らの子というのは必要ではない余分な事だったのである。 ———実際、その息子を目にするまではの話であるが。  何も感じる事はないだろう、と黄理は思っていた。  そもそも必要としていないのだから息子など邪魔なだけだ。  だから初めに一目だけ見て、あとは全て女に任せようと考えていた。 ————だが、彼の世界はその一目で変貌した。  何かがすとん、と落ちたような変革だった。  それとも生まれた時から憑いていた何かが落ちたのか。  ともかくその生き物を見た瞬間、七夜黄理は暗殺を生業とするのはここまでだと決めた。  子供が可愛かった、などという感情は今でもないだろう。  ただそうしなければならないと思っただけの話で、それからの彼の生活は一変した。  もとより“人を殺す”事しか知らなかった男だ。  それが“人を生かす”事をしようというのだから、まさに人生の転機というしかない。  人生というのは巧くできている、と黄理は言った。  それは確かにその通りで、人を生かすという手段は何もかもが新鮮であり、困難であった。  殺すという事柄に慣れていた黄理にとって、それからの年月は退屈ではなくなっていたのだから。 「一つ尋ねるが。おぬし、息子が可愛くて足を洗ったのか」 「まさか。止めたのは自分のためだ」  そう。子供というのが、まこと自身の分身だというのなら、 「己と同じ道を歩ませたくないと?」 「それが、俺と違う道を歩めるのかが見てみたかった」  なるほど、と医師は頷いた。  治療は終わり、黄理は医師に背中を向ける。 「じゃあな。縁があったらまた世話になる」  医師は返答をしない。  七夜黄理が去った後、医師は彼の言葉を反芻する。 「違う道を歩めるか、か」  それを自分の為だと言っていた男は、それこそが父親としての愛情だと気が付いていたのだろうか。 「———たわけめ。今更人間の感情なぞ持ちおって」  何もかも遅すぎた。  人としての幸福を引き当ててしまった事が、あの卓越した殺人鬼にとっては不幸だったのだ。 「おぬしでは無理だ。それは、決して手に入らない」  一人呟いて、医師はため息まじりに笑った。  そのような事、誰よりもあの殺人鬼本人が心得ていよう。  あの男はいずれくる終わりを受け入れていた。  自らの息子さえ含めた一族全てを道連れにと、暗殺者としての道を外れたのだ。  七夜の当主ならば悟っていたのだろう。  七夜は暗殺者として頂点に有り続けたからこそ存在しえた。  ……故に、その頂点から転がり落ちる時こそ、七夜という血族が滅びる時。  これはただ、その訪れが六年遅れてやってきただけの、そんな話にすぎないのだと。       そうして、夜が訪れた。 □七夜の屋敷 「下と連絡が取れない、と?」 「———はい。くわえて遠目が下界二箇所に集団を発見しております。おおよその数は五十人程、おそらくは———」 「遠野の私兵か。その数からして皆殺しという意気込みだろうな」  七夜黄理は愉快げに笑う。  そこに焦燥の翳りは皆無だ。  五十人からの武装集団がこの屋敷を目指して包囲網を展開しつつあるという状況。  もともと山奥であり、この地域を管轄していた組織の者も襲撃の首謀者に買収されてしまっている。  助けは求められぬし、もとより求めた所で来る者など一人もおるまい。  その状況で黄理は笑っていた。  それも当然、もとより覚悟していた事だ。  いや、むしろここ数日は今か今かと待ち続けていたと言ってもよい。 「しかし遠野か。そんな連中は知らんのだがな。さて、いつのまに恨みを買ったものか。おまえには覚えがあるか?」 「……いえ。遠野は私たちの管轄ではございません。もとよりあの一族は組織と折り合いをつけております故、我らが手を下した事実はないと」 「なるほど、では何かつまらん事情だろう。は、そんな事で命を捨てに来るとは酔狂な連中だ」 「———御館様。まさか、打って出るおつもりなのですか?」 「当然だろう。禍根は芽が出ているうちに潰せねば眠りが浅くなる。上がこの一件を静観するのなら好都合だ。何人殺そうが、後始末は連中が済ませてくれる」 「……ですが、それではこちらとて無事では済まされません。敵は混ざりモノではなく武装した人間です。職業的な暗殺者としては、敵方がより徹底しているかと」 「ふん、確かに流れ弾だけは防げんからな。——いいだろう、俺が先行して主立った者は潰しておく。兄貴たちには残飯処理を任せるとしよう」  そうして黄理は歩き出す。  この山の地形は木々一本にいたるまで把握している黄理にとって、襲撃者の進行ルートなど報告される必要もない。  敵がどの方角から現れ、何処を目指しているかさえ解ればおのずとその道程は知れるからだ。 「———御館様」 「なんだ」 「ご子息はどうなさいます。ご命令とあらば、我ら一命を以て外へ———」 「やめておけ、それこそ蜂の巣にされておしまいだ。おまえたちも戦力であるのなら自覚を持て。アレはまだ戦力にすらならない子供だ。ならば優先すべきはおまえたちの方だろう」 「———ですが、志貴はわたしたちの子供です」 「ならば寝かせておけよ。存外、それが最も生き残れる方法かもしれんからな」  愉快げに笑って黄理は座敷を後にした。  七夜黄理は先行して襲撃者を打つ。  もともと単独で暗殺をこなしてきた黄理にとって、集団での連携など調子を乱すだけの厄介事だ。  黄理は知り尽くした夜の森を駆けていく。  敵は五十人。重火器で武装したままで山道を登ってきている。 「————どこの間抜けだ、それは」  木々の間をすり抜けながら黄理は毒づく。  どうせ金をかけるなら上から一気に屋敷へ押し入ってくれば良かったものを、わざわざ下から上がってくるなど効率が悪すぎる。  それとも彼らは本気で、この山で隠密行動が取れるとでも思っているのか。  この、罠と罠で埋め尽くされた七夜の森を相手にして。 □七夜の森 □七夜の森 □七夜の森 □七夜の森 □七夜の森 □七夜の森 □七夜の森  そうして、わずか、鈍い快音が生じた。  突然の襲撃、いつのまにか殺されていた仲間、堰を切って繰り出されてきた数々の罠。  それらに抵抗するために機銃が火を吹き、火花の音と光が連続する。  その混乱の中、一人、また一人と彼らは数を減らしていった。 「——————?」 「——————!」  命令系統が混乱しているのだろう、統率のとれていない動きをしながら彼らは叫ぶ。  それでも個々の技術は卓越しており、彼らは独自の判断でこの区域から離脱していく。  そうして静寂。  森に残されたのは死体だけとなる。  倒壊した樹木に押し潰された死体、味方の射撃範囲に入ってしまった死体、背後から首をねじ切られた死体、脳天から首までを串刺しにされた死体、等々、その種類は様々だ。 「————————」  散り散りになった襲撃者たちの行く末を全て確認してから黄理は行動を再開した。  こちら側に残っている敵は十余人。  黄理ならばそう時間をかけずに狩り取れる数である。  最後の一人を仕留めて黄理は足を止めた。  選択肢は二つ。  このままもう一方の襲撃者たちを討ちにいくか、それとも———このまま、おそらくは下で様子を見ている首謀者の首を獲りに行くか。  もう一方の襲撃者たちはすでに屋敷を包囲する為に四方に展開しているだろう。それを一人一人潰していった所でさして意味はない。  そちらは屋敷に残した者たちに任せて、自分は首謀者を獲りにいくべきか、と思案した時。  七夜黄理は、新たに現れたもう一人の襲撃者と遭遇した。 □七夜の森 ————それは独眼の、年若い青年だった。  銃器はおろか凶器を持っている風でもなく、身一つでゆらりと木々の狭間から現れた。 「————————」  黄理の脈拍が段階をあげる。  今まで決して、どのような暗殺でも眉を動かさなかった男が、その青年を一目見ただけで顔を凍りつかせた。 「————」  咄嗟にこの区間から抜ける。  そのまま、あの場に仕込んであったあらゆる罠を発動させた。  刃物の投擲。倒壊する樹木。地面より突き出す槍の群れ。  一秒を要さずして森が地響き、先ほどまで黄理がいた森は痕跡を残さぬ瓦礫と化した。  だが、そんな事をする必要はなかったのだ。  そもそもその程度の衝撃で、あの襲撃者が傷つく筈もなかったのだから。 □七夜の森 「七夜黄理か」  倒壊した森から悠然と現れ、青年はそう問うた。 「——————」  黄理は答えず、青年を凝視した。  ……あの時以上の鮮烈な朱色が流れている。  青年は軋間という血族の人間だ。  鬼という異種と交わり、血だけではなく肉までも混ざり合わせた者たちの末裔。言うなれば混血側の七夜とも言える、ただ破壊の能力だけを求められた一族。  決まって発狂者を出すという軋間の血脈は、しかし数年前に絶えたと聞く。  彼らは誰に滅ぼされた訳でもなく、自らが生み出した発狂者に一人残さず殺された。  その発狂者の名を確か、軋間———紅摩と言ったか。  わずか十歳たらずで軋間という魔の一族を返り討ちにした発狂者。自らに眠る異種を覚醒させ、人でありながら魔と化した者。  それを、古い伝承で紅赤朱と呼ぶ。 「一度会ったか、ガキ」  黄理は身体を深く構えて、紅摩を自らの間合いに入れる。 「—————————」  紅摩という青年は答えず、ただ片腕を持ち上げた。 ————————瞬間。         戦いが、始まった。  黄理は後手を踏んだ。  一足で敵の懐に跳びこみ、打たれたと気が付く前に首を潰す。  その、決して他の追随を許さぬと自負していたそれが、敵の一撃の前に文字通り粉砕された。  軋間紅摩は、七夜黄理が一足を踏み出すより先に跳んでいた。  風切り音をあげて黄理の目前に立ち、無造作に振り上げた腕を突き出す。 「——————」  呆然としながらもそれを躱し、無様に突き出された腕の肘をバチで貫く。  それきり紅摩の腕は用をなさなくなる筈だった。  だが紅摩の体には傷一つ無い。  黄理は瞬時に敵の肉体が鋼めいた硬度だと受け入れ、距離をとるために後ろへ跳んだ。  そこへ、寄りそうように追撃をする独眼の魔手。  黄理は大樹を背にした。  突き出される紅摩の腕を引きつけ、紙一重で回避する。  紅摩の腕は止まらず、そのまま大樹へと打ちつけられた。 「————————」  取った、と黄理は思考し、引け、と黄理は判断した。  黄理は判断を優先した。  隙だらけである筈の紅摩から距離をとろうと全身をバネにする。  それと同じくして、軋間紅摩が打ちつけた大樹が倒壊した。 「は————————?」  今夜は初めての事だらけだったろう。  黄理は初めて、殺し合いの途中で声をあげる。  だがそれも仕方がなかろう。  大樹は一メートルに届くほどの幹を持ち、人間が拳を打ちつけた所で倒壊するような物ではない。  だというのに、それを倒した。  しかも打ちつけた衝撃によってではなく、この男は幹を片手で“握り潰して”大樹を倒したのだ。  それは、もはや怪力だのと呼べる次元の握力ではない。 「———————」  独眼が流れる。  離脱しようとする黄理を捉える。 「———————は」  黄理は笑った。  今までのように、自らの殺人技術の結果を見て笑うのではなく、初めて、これから行われるであろう殺し合いを思って、このうえなく口元がつりあがっていた。  素晴らしい時間だった。  何をしても軋間のこせがれには傷を与えられず、  自身は逃げ回る事しかできない。  森に仕組んだあらゆる罠は何一つ通じず、  黄理の凶器は紅摩の体に痣一つ作れない。 ————勝てる見込みなど。     生きて戻れる算段なぞ皆無に等しい。  だが、それは素晴らしい時間だった。  少なくとも黄理にはそう感じられていた。  軋間紅摩が突進してくる。  それはただの突進だ。初めはその速度に驚かされたが、慣れてしまえばどうという事はない。  なにしろこの男は暗殺技術を何一つ知らないのだ。  その突風めいた突進も、  突き出す死神の鎌めいた必殺の腕も、  あらゆる凶器を弾き返す鋼の躯も。  その全ては生まれ持っただけの物。  軋間紅摩という青年は、鍛錬と名のつく事は何一つとして行ってはいない。  それはなんて単純で、原始的な、余分なモノのない破壊だろう。 「は——————は」  黄理の口元が笑いに歪む。  目の前には触れられただけで圧壊される魔の腕が走る。  それを紙一重で左へと躱して、敵の無防備な首、左側面に凶器を突き刺す。  そんなものは無論、通じない。  もう何十と繰り返しているというのに、紅摩の首は傷つかない。 「——————」  黄理は内心で嗤っていた。  これだけ繰り返しても人一人殺せない程度の腕前で何が当代一の暗殺者か、と。  だが恥じる必要など何処にもあるまい。  常人ならば確実に四十回は殺しているというピンポイントの一撃。  それを寸分たがわず、一ミリの狂いさえ出さず、即死の魔手を躱しながら同じ個所に叩きつける。  その病的なまでの行為を、七夜黄理以外の誰に出来ようか。  何度目かの大樹の倒壊。  紅摩の腕が幹を握りつぶした結果。  それを見て黄理は思う。  七夜黄理が“殺す”という事を追求した鬼神だったのなら、  軋間紅摩は“壊す”という事を究極した鬼神なのだろう、と。  両者の力は似て非なる物。  比べる事は間違っているのだろうが、それでも基準として自身が劣っている事を黄理は把握している。  この鬼神に対抗できるのは、同じく死を究極とする者だけだ。所詮“死”を探究していただけの自分、初めから持ち得ない七夜黄理にはその高みまでは昇れまい。  コレに対抗できるモノがあれとすれば、それはこの鬼神同様、生まれた時から壊れているモノだけである。 ——————————だが。  だからこそ、  生まれながらにして“死”を持ち得なかった黄理だからこそ、  到達できる地平があった。 「——————」  何度目かの紅摩の魔手。  軋間紅摩の表情は何一つ変わらない。  それはかつての七夜黄理と同じ、無関心の殺人故だ。  自らが死ぬという怖れもなく、殺すべき対象に畏れもない、ただ行為に没頭するだけの殺人者。 ————お互い損をしたな、小僧。  黄理はそう思考し、笑いをかみ殺して最後の一撃に備える。  本当に損をしていた。  こんなにも殺し合いが嫌な物だと知らなかった。  心臓がひっくり返るほどの恐怖。  自身が繰り出す一撃が敵を打倒できるかどうかという焦り。  最中、何もかもがどうでもよくなるような白い脳髄。  吐き気がして、笑いをかみ殺す事が難しい。  ……ああ、本当に損をしていた。  カタチには問題はあるが、これはこんなにも単純な命の鬩ぎ合いだ。  ならばこれほど、生きているのだと実感できる瞬間はあるまいに————!  走る魔腕。  それをやはり紙一重で躱し、黄理は右側へと回りこんだ。 「————————」  軋間紅摩の独眼に変化が生じる。  七夜黄理同様、彼もまた、初めて———自身の死というものを予感した。  今まで七夜黄理が執拗に左側だけに躱していた分、軋間紅摩は右側へとすり抜けた標的を追いきれなかった。  くわえて言うのなら。  右目を潰されている彼にとって、そこは絶対の死角となっている。  走る凶器。  渾身の力をもって黄理は紅摩の首へと凶器を打ちつける。  今まで散々繰り返した左首へではなく右首。  左側と寸分たがわず、見事なまでのシンメトリーを描くその位置へ。 □七夜の森 ———あの子供を見た瞬間、咄嗟に片目を潰した訳。  その理由が、これである。  彼は、あの時。  軋間紅摩という怪物には敵わないと直感し、ただ一度だけ、私的な感情で勝機を用意した。  遠い未来。もしこの怪物と殺し合う時があらば、この一撃で全てを決せられるようにと。 「———————キ、サマ」  乾いた、死者のような紅摩の声。 「———————チ」  舌打ちは黄理の物だった。  かみ殺していた笑いが萎む。  彼の凶器は一センチほど敵の首にめり込んでいる。 衝撃は、確実に左首へと貫通しただろう。  ならば蓄積された傷は軋間紅摩の首を砕いている筈だ。 「——————貴様は、何、だ」  だが。ならば何故、軋間紅摩は声をあげる。  そうして黄理は大樹へと叩きつけられた。  腹を片手で掴まれ、そのまま遠投された。  そのおりに七夜黄理の腹部は圧壊され、彼は上半身だけになって幹を滑り落ちる。  次の瞬間。  軋間紅摩は大樹へと走り、七夜黄理の顔を瞬壊した。  ……敗因があるとしたら、それは七夜黄理の人生そのものだっただろう。  七夜黄理は殺人鬼ではなく暗殺者だった。  故に、あの時に片目を潰すだけに留めたのだ。  いずれソレが強大な敵となると直感しても、彼は子供を殺す事はしなかった。  それが軋間紅摩を生かし七夜黄理を殺した、最も単純な理由だった。 □七夜の森  ゆっくりと、軋間紅摩は自らの首に触れた。  鈍痛がある。  紅摩は知らない。  痛みというものを今まで知らずに育ってきた。  故に、この痛みがあとわずかだけ強いものであったのなら、自身の首が落ちていたという事も知らない。 「嗚—————呼」  心臓が高鳴った。  正体不明の命令が体内を駆け巡る。  指先が震え、目の焦点がうまく合わない。  はじめて意識して呼吸を繰り返し、目前の死体を見下ろす。 「嗚——————」  また心音。  体は他人のもののように熱を帯びている。  夢のようだと、紅摩は思った。  だがそれは違う。  彼はようやく夢から覚めた。  六年前。自らを殺すであろう子供を、初めて自分の意志で傷つけてから正気を失った七夜黄理と同じように。  それは胡乱な、なにもかも空虚で意味が感じられなかった自身の霞みが取れただけ。  だが彼にはその正体が掴めなかった。  放っておけば霞みがまた戻ってきて、もとの空虚な自分に戻ってしまうと考えるとたまらなくなった。 ———熱い。  だが心地よい熱さだ。  生きているとは、息をしているとはそういう事だ。  それを味わったのはこの男を殺してからだった。  だから———�  だから、もっと繰り返せば、この熱さが続くと思った。 「——————呼」  怪物の口元から音が漏れた。  怪物は七夜の森を歩き始める。 ———————見境が、なくなっていた。 ————彼らの悲鳴は、葦切りのそれに似ていた。  月は遠く。  森は静かに。  誰もいない闇を歩き続けた。  黒い野原で鬼に出会った。  じゅうじゅうと地面が焦げていて、草むらの広場は一面の荒野へと変わっていた。  その荒野は、蛇苺の実でしきつめられたように朱く、どこまでも血の様に赤かった。  そこに、朱色の魔が立っていた。  ゆらゆらと蜃気楼のように霞んでいたものだから、あまり恐ろしくはなかったのだろう。  ぼんやりとそいつを見上げると、それはワラッテイルようだった。  ただ笑い方を知らないのか、あまり嬉しそうではなかった。 「おまえは、七夜か」  ワライながらそれは言った。  うん、と頷いて、父親を知らないかと尋ねてみた。  鬼は一段と口元を笑いに歪めたあと、 「いずれ会える」  赤い眼を細めて呟くと、そいつは叢に食われるように消えていった。  ……遠くで呼ぶ声がする。  一人きりは怖いから、もっと奥の森に行かなくてはいけない。  木々のヴェールの向こうではお祭りめいた騒ぎが繰り返されている。  七夜志貴は、森の奥へと歩いていく。  話はここで幕を閉じる。  古い、もう誰も知る事のない話故に、事の顛末を知る者もやはりいない。  知るモノがあるとすれば、おそらくはソレだけだろう。      ————頭上には青い月。      その物語は、ここから始まる。